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第54位  文藝春秋 - 2018年02月13日


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文藝春秋
株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう、英語: Bungeishunju Ltd.)は、日本の出版社。東京都千代田区紀尾井町に本社を置く。 1923年(大正12年)1月、文藝春秋社として菊池寛が創業。 1946年(昭和21年)3月、「戦争協力」のため解散したが、佐佐木茂索をはじめとする社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が設立される。 1966年(昭和41年)3月、現在の社名に改められる。芥川賞や直木賞をはじめ、多くの文芸賞を手がけている。 過去には東京12チャンネルにて1968年から1981年まで放映されていた、各界著名人の生涯を紹介する『人に歴史あり』に協力していたこともある。 社員の初任給は260,000円(月収)。なお、1968年まで組合は存在せず社員会であった。 本館が文藝春秋本社であり、新館と西館がテナントビルである。新館はプランテック、日本文藝家協会、シティリビング、三井物産マーケティングなど十社程度が入居、西館は地下1階に文春ホール、1階にグランドプリンスホテル赤坂運営の「ラウンジ春秋館」、6階に談話室・執筆室のほかは日本民間放送連盟が入居している。 (Wikipedia:文藝春秋)

文藝春秋漫画賞
文藝春秋漫画賞(ぶんげいしゅんじゅうまんがしょう)は、かつて文藝春秋が主催していた漫画に対する賞である。 1955年に設立。漫画集団や雑誌『文藝春秋漫画讀本』に代表されるような、「児童漫画や劇画と一線を画する」現在では「大人漫画」と呼ばれる旧来の「漫画」を表彰するために作られた賞であり、4コマ漫画、一コマ漫画、風刺漫画を対象とした漫画賞だった。ただし、「新人賞」なのか「功労賞」なのかが曖昧で、選考が一貫しなかった。 山藤章二、和田誠、古川タクのイラスト、長新太の絵本、マッド・アマノのパロディ作品なども受賞している。イラストや絵本やパロディ作品も、現代日本の漫画文化を形成する重要な一形態として評価した。 だが、後期は「大人漫画」が衰退したため、かつての「児童漫画」であるところのギャグ漫画が選考対象に含まれ、吉田戦車の『伝染るんです。』などが受賞をすることになった。選考基準があいまいになり、誰が何故、受賞するか予測不可能な賞とも言われるようになる。江口寿史、とり・みき等ベテラン作家が受賞した際には、審査委員長が彼らの作品を「初めて読んで感心した」といった内容のコメントをしていた。 (Wikipedia:文藝春秋漫画賞)

文藝春秋 (雑誌)
『文藝春秋』(ぶんげいしゅんじゅう)は、株式会社文藝春秋が発行する月刊雑誌(総合誌)である。 1923年(大正12年)1月、菊池寛が私財を投じて創刊した。実際の発売は前年の暮れである。 価格は1部10銭、部数は3000部、発売元は春陽堂であった。誌名の由来は菊池が『新潮』で連載していた文芸時評のタイトルから来ている。その後、関東大震災の影響で印刷済みの同年9月号が焼失したため休刊となったものの、順調に部数を伸ばした。また「座談会」という言葉を初めて用いた。1930年代には、文芸雑誌から総合雑誌へと、性格を変えた。また、芥川賞受賞作の掲載誌としても権威を高めた。 敗戦占領期には、菊池が戦争責任を問われ公職追放となり、一時廃刊の危機にあったが、池島信平・鷲尾洋三が編集長となり佐々木茂索を社長として「文藝春秋新社」として再発足。 毎月10日発売(発行日は1日)。判型はA5判、ページ数は通常は約450ページ。目次は折り畳み式。カバージャンルは政治、経済、経営、社会、歴史、芸能、軍事、皇室、教育、医療、スポーツと多岐に及んでいる。 (Wikipedia:文藝春秋 (雑誌))

文藝春秋 (出版社)
株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)は、日本の出版社。
1923年1月、文藝春秋社として菊池寛が創業した。
1946年3月、解散したが、社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が設立される。
1966年3月、現在の社名に改められる。
芥川龍之介賞 芥川賞をはじめ、多くの文芸賞を手がけている。
売上利益の7割以上を雑誌Sports Graphic Number Numberと本社新館の家賃収入で賄っている。社員の初任給は258,000円、局長クラスは3000万円超と業界内でも高い給与水準を誇る。なお、労働組合は結成が禁止されており、代わりに「社員会」(社長が代表を務める)が結成されている。
所在地 東京都千代田区紀尾井町3番23号
(Wikipedia:文藝春秋 (出版社))

文藝春秋社
『文藝春秋 (出版社)』より : 株式会社文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう、英語: Bungeishunju Ltd.)は、日本の出版社。東京都千代田区紀尾井町に本社を置く。 1923年(大正12年)1月、文藝春秋社として菊池寛が創業。 1946年(昭和21年)3月、「戦争協力」のため解散したが、佐佐木茂索をはじめとする社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が設立される。 1966年(昭和41年)3月、現在の社名に改められる。芥川賞や直木賞をはじめ、多くの文芸賞を手がけている。 過去には東京12チャンネルにて1968年から1981年まで放映されていた、各界著名人の生涯を紹介する『人に歴史あり』に協力していたこともある。 社員の初任給は260,000円(月収)。なお、1968年まで組合は存在せず社員会であった。 本館が文藝春秋本社であり、新館と西館がテナントビルである。新館はプランテック、日本文藝家協会、シティリビング、三井物産マーケティングなど十社程度が入居、西館は地下1階に文春ホール、1階にグランドプリンスホテル赤坂運営の「ラウンジ春秋館」、6階に談話室・執筆室のほかは日本民間放送連盟が入居している。 (Wikipedia:文藝春秋社)

文藝春秋読者賞
文藝春秋読者賞(ぶんげい しゅんじゅう どくしゃしょう)は、「文藝春秋」の読者が、同誌の最も優れた記事を表彰する賞である。 毎年12月号で募集される。読者は、その年の1月号から12月号までの全記事から、最も面白かった、最も感銘深かった記事を一つ選ぶ。連載、コラム、グラビアも対象となる。それを綴じ込みの料金受取人払いの葉書に書き、編集部へ郵送する。1954年から63年までは年二回であった。 投票数一位から十位までの記事から選考委員が審議して決定する。受賞作は毎年2月号で発表される。受賞者には、賞金の五十万円と記念品の時計が贈られる。また、応募した読者からは抽選で三十名に三万円、二百名に図書カード三千円分が贈られる。 受賞作 (発表は当該年度翌年の2月号) 第1回(1949年)辰野隆、サトウハチロー、徳川夢声「天皇陛下大いに笑ふ」 第2回(1950年)坂口安吾「巷談」 第3回(1951年)尾崎士郎「天皇機関説」 第4回(1952年)小泉信三「平和論」 第5回(1953年)阿部真之助「現代政治家論」 第6回(1954年上)行広房子「原爆少女母親の記録」 第7回(1954年下)中谷宇吉郎「科学と国境」 第8回(1955年上)吉川英治「忘れ残りの記」 第9回(1955年下)文藝春秋編集部「新聞の尻に敷かれる日本人」 第10回(1956年上)大宅壮一「日本の裏海道を行く」 第11回(1956年下)山下清「ハダカの王様西へ行く」 第12回(1957年上)鈴木茂三郎「一社会主義者の半生」 第13回(1957年下)伊藤正徳「三笠の偉大と悲惨」 第14回(1958年上)竹山道雄「妄想とその犠牲」 第15回(1958年下)美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」 第16回(1959年上)松本清張「小説帝銀事件」 第17回(1959年下)菊地政男・山地正「白い肌と黄色い隊長」  第18回(1960年上)井上靖『蒼き狼』 第19回(1960年下)該当作なし 第20回(1961年上)加東大介「南海の芝居に雪が降る」 第21回(1961年下)松下幸之助「所得倍増の二日酔い」角田房子「東独のヒルダ」ほか 第22回(1962年上)山中峯太郎「実録アジアの曙」 第23回(1962年下)堀江謙一「太平洋ひとりぼっち」 第24回(1963年上)杉森久英「昭和の謎辻政信伝」 第25回(1963年下)城山三郎「硫黄島に死す」 第26回(1964年)石川達三「私一人の私」 第27回(1965年)水上勉「城」 第28回(1966年)草柳大蔵「現代王国論」 第29回(1967年)有吉佐和子「海暗」 第30回(1968年)司馬遼太郎「歴史を紀行する」 第31回(1969年)石原慎太郎・小田実「日本について語ろう」 第32回(1970年)田村洪「対立する三人の公害告発者」 第33回(1971年)福林正之「かかる聖医ありき」 第34回(1972年)吉村昭「深海の使者」 第35回(1973年)山本七平「ある異常体験者の偏見」 第36回(1974年)立花隆・児玉隆也「特集 田中角栄研究」 第37回(1975年)江藤淳「海は甦る」 第38回(1976年)夏之炎「北京のいちばん寒い冬」 第39回(1977年)本田靖春「誘拐」 第40回(1978年)土門周平ほか「第三次世界大戦」 第41回(1979年)森嶋通夫・関嘉彦「大論争 戦争と平和」澤地久枝「昭和史のおんな」 第42回(1980年)上前淳一郎「洞爺丸はなぜ沈んだか」 第43回(1981年)長谷川慶太郎「世界が日本を見習う日」文藝春秋編集部「市民への直通電話」 第44回(1982年)ドウス昌代「ブリエアの解放者たち」 第45回(1983年)立花隆「田中角栄と私の9年間」読者投稿「されどわが満洲」 第46回(1984年)永井陽之助「現代と戦略」丸谷才一、木村尚三郎、山崎正和「鼎談書評」 第47回(1985年)浅利慶太「企業トップの『わが決断』」半藤一利「聖断」 第48回(1986年)渡辺淳一『静寂の声』藤尾正行「"放言大臣"大いに吠える」 第49回(1987年)深田祐介『新東洋事情』大前研一「「見えない税金」に怒れ」 第50回(1988年)林真理子「いいかげんにしてよアグネス」眞神博「衝突現場 15分間の新事実」 第51回(1989年)宮尾登美子『松風の家』、編集部「「輝ける昭和人」血族の証言55」 第52回(1990年)山崎豊子『大地の子』、「昭和天皇の独白八時間」 第53回(1991年)中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」城山三郎「本田宗一郎は泣いている」 第54回(1992年)佐々淳行「東大のいちばん長い日」(東大落城) 第55回(1993年)矢野絢也「極秘メモ全公開」伊藤律「『日本のユダ』と呼ばれて」 第56回(1994年)柳田邦男「犠牲 わが息子・脳死の11日」 第57回(1995年)近藤誠「あなたがガンになったとき」、編集部「美しき日本人50の肖像」 第58回(1996年)猪瀬直樹「日本国の研究」 第59回(1997年)稲泉連「僕が学校を辞めると言った日」久田恵「息子の心、親知らず」柳田邦男「脳治療革命の朝」 第60回(1998年)三好万季「四人はなぜ死んだのか」美智子「子供時代の読書の思い出」(特別賞) 第61回(1999年)「20世紀日本の戦争」阿川弘之、中西輝政、秦郁彦、福田和也、猪瀬直樹/日垣隆「『買ってはいけない』は嘘である」 第62回(2000年)堀内光雄「石油公団は解散しろ」石原慎太郎「わが人生の時の人々」 第63回(2001年)塩野七生「日本人へ! ビンラディンにどう勝つか」山崎敏子「小児がん 九歳の息子が遺した言葉」 第64回(2002年)城山三郎「私をボケと罵った自民党議員へ」編集部「遺書 80歳 魂の記録」 第65回(2003年)加藤恭子「昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見」片桐幸雄「道路公団藤井総裁の嘘と専横」 第66回(2004年)岩瀬達哉「伏魔殿 社会保険庁を解体せよ」田中一昭、松田昌士「小泉総理、石原国交相、猪瀬委員に問う 「道路公団」裏切りの民営化全内幕」 第67回(2005年)「日中韓「靖国参拝」大論争」櫻井よしこ,田久保忠衛, 劉江永[他] 「日本 敗れたり--あの戦争になぜ負けたのか」半藤一利, 保阪正康, 中西輝政、福田和也、加藤陽子、戸高一成 第68回(2006年)玄侑宗久・柳澤桂子「般若心経 いのちの対話」 第69回(2007年)「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」半藤一利、秦郁彦、戸高一成、福田和也、平間洋一 第70回(2008年)戸塚洋二「あと三カ月 死への準備日記」佐藤優「インテリジェンス交渉術」 第71回(2009年)藤原正彦「名著講義」 第72回(2010年)村木厚子「私は泣かない、屈さない」渡辺淳一「天上紅蓮」 第73回(2011年)「田中角栄の恋文」佐藤あつ子、立花隆(解説) 第74回(2012年)柳田邦男「原発事故 私の最終報告書」保阪正康「太平洋戦争知られざる証言」 第75回(2013年)五木寛之「うらやましい死に方」野上孝子「山崎豊子先生の素顔」 選考委員 1956-58 辰野隆、今日出海、宮澤俊義、河上徹太郎、浦松佐美太郎、福原麟太郎、金森徳次郎  1959-72 金森死去、代わって池島信平 1973-75 会田雄次、江藤淳、丸谷才一、曽野綾子、沢村三木男 1976-77 有吉佐和子、山口瞳、山本七平、沢村 1978 有吉、江藤淳、曽野綾子、丸谷、沢村 1979 有吉、山口瞳、山本七平、沢村 1980-81 井上ひさし、山崎朋子、吉村昭、渡部昇一、千葉源蔵 1982 井上が抜ける 1983 柳田邦男、澤地久枝、深田祐介、千葉 1984 ---- ---- ----、上林吾郎 1985-89 阿川弘之、佐伯彰一、桐島洋子、上林 1990-96 --、--、--、田中健五 1997 --、--、--、安藤満 1998-2000 渡辺淳一、浅利慶太、櫻井よしこ、安藤 2001-05 深田祐介、浅利慶太、渡辺淳一、櫻井よしこ、白石勝 2006-09 深田、浅利、渡辺、櫻井、上野徹 2010-2013 深田、浅利、渡辺淳一、櫻井、平尾隆弘 2014 山内昌之、鈴木敏夫、阿川佐和子、平尾隆弘 参考 『最新文学賞事典』日外アソシエーツ、2014 。 (Wikipedia:文藝春秋読者賞)


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