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第42位  筑後 - 2019年02月10日


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筑後
筑後(ちくご) 筑後国 筑後地方 筑後市 - 福岡県筑後市 ちくご (護衛艦) - 海上自衛隊の護衛艦。 (Wikipedia:筑後)

筑後川
筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ有明海に注ぐ川である。河川法に基づき国土交通省政令によって1965年(昭和40年)に指定された一級水系・筑後川水系の本流で、一級河川に指定されている。 流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川である。利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎の別名で呼ばれることもある。また、上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる(詳細は後述)。 地理 熊本県阿蘇郡南小国町の阿蘇山の外輪山、瀬の本高原に源を発する。大分県に入り、日田市で玖珠川を併せ西流。福岡県に入り筑紫平野を貫流する。久留米市西部あたりからは福岡県と佐賀県をまたぐように南西方向に流れるが、流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い。 (Wikipedia:筑後川)

筑後柳河駅
『佐賀線』より : 筑後柳河駅(ちくごやながわえき)は、かつて福岡県山門郡三橋町(現・柳川市)大字柳河にあった、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線の駅(廃駅)である。 1931年(昭和6年)9月24日 - 国有鉄道佐賀線瀬高 - 当駅間開業にともない設置。一般駅。 1933年(昭和8年)6月17日 - 当駅 - 筑後大川間延伸開業。 1978年(昭和53年)6月15日 - 貨物取り扱い廃止。 1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物取り扱い廃止。 1987年(昭和62年)3月28日 - 廃止。 駅構造 廃止時は島式ホーム1面2線を持つ業務委託駅で、急行「ちくご」の停車駅であった。 駅跡 駅跡は公園に整備されており、記念碑などは建てられていないが、かつての駅舎があった付近に写真付きの説明板が設置されている。また、佐賀駅側には陸橋があり、当時は佐賀線を立体交差するため建設されたものの、現在としては無意味な橋となっている。また、当駅の屋根や線路が市営の運動公園「学童農園むつごろうランド」に移設されている。 (Wikipedia:筑後柳河駅)

筑後大川駅
『佐賀線』より : 筑後大川駅(ちくごおおかわえき)は、かつて福岡県大川市大字小保にあった、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線の駅(廃駅)である。 1933年(昭和8年)6月17日 - 国有鉄道佐賀線筑後柳河 - 当駅間開業にともない設置。一般駅。 1935年(昭和10年)5月25日 - 佐賀 - 当駅間が開業し、佐賀線が全通。 1978年(昭和53年)6月15日 - 貨物取り扱い廃止。 1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物取り扱い廃止。 1987年(昭和62年)3月28日 - 廃止。 駅構造 廃止時は単式ホーム1面、島式ホーム1面3線を持つ業務委託駅で、急行「ちくご」の停車駅であった。昭和20年代ごろまで同駅から若津港までの引込線があった。 駅跡 現在は記念碑が残され、ハローワークおよび道路に整備されている。 隣の駅 日本国有鉄道 佐賀線 筑後若津駅 - 筑後大川駅 - 東大川駅 関連項目 日本の鉄道駅一覧。 (Wikipedia:筑後大川駅)

筑後若津駅
『佐賀線』より : 筑後若津駅(ちくごわかつえき)は、かつて福岡県大川市大字向島にあった、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線の駅(廃駅)である。 1938年(昭和13年)3月30日 - 国有鉄道佐賀線諸富 - 筑後大川間に新設。旅客、荷物を取扱い。 1971年(昭和46年)10月20日 - 荷物取り扱い廃止。 1987年(昭和62年)3月28日 - 廃止。 駅構造 廃止時は単式ホーム1面1線を持つ無人駅であった。 駅跡 筑後川昇開橋を見渡せる展望所になっており、記念碑も建てられている。 隣の駅 日本国有鉄道 佐賀線 諸富駅 - (筑後川信号場) - 筑後若津駅 - 筑後大川駅 関連項目 日本の鉄道駅一覧。 (Wikipedia:筑後若津駅)

筑後川信号場
『佐賀線』より : 筑後川信号場(ちくごがわしんごうじょう)は、かつて福岡県大川市大字向島にあった、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線の信号場(廃止)である。 1936年(昭和11年)6月18日 - 国有鉄道佐賀線佐賀 - 筑後大川間開業にともない設置。当時の名称は筑後川信号所。 1947年(昭和22年)5月1日 - 筑後川信号場に改称。 1987年(昭和62年)3月28日 - 廃止。 構造 一般にある列車を行き違いさせるための施設ではなく、筑後川昇開橋の中央部にある可動式橋桁の昇降を制御するための施設である。係員は、福岡県側から渡って中央部に行き来していた。 隣の駅 日本国有鉄道 佐賀線 諸富駅 - 筑後川信号場 - 筑後若津駅 関連項目 日本の鉄道駅一覧。 (Wikipedia:筑後川信号場)

筑後市
筑後市(ちくごし)は、福岡県南部の筑後平野の中央に位置するほぼ平坦な田園都市。福岡市からJR九州鹿児島本線で約45分、自動車で約1時間の距離にある。同市のマスコットキャラクターははね丸とパネコ・ポネコの姉妹。 地理 市域 東西7.5km、南北8.2km、面積41.85km²。 隣接する市町村 久留米市・柳川市・八女市・みやま市 三潴郡大木町・八女郡広川町 河川 矢部川 沖の端川 花宗川 山ノ井川 倉目川 松永川 地名 熊野(旧羽犬塚町) 蔵数(旧羽犬塚町) 徳久(旧羽犬塚町) 羽犬塚(旧羽犬塚町) 久富(旧羽犬塚町) 山ノ井(旧羽犬塚町) 北長田(旧古川村) 久恵(旧古川村) 新溝(旧古川村) 鶴田(旧古川村) 溝口(旧古川村) 和泉(旧水田村) 江口(旧水田村) 尾島(旧水田村) 折地(旧水田村) 上北島(旧水田村) 古島(旧水田村) 四ヶ所(旧水田村) 島田(旧水田村) 志(旧水田村) 下北島(旧水田村) 下妻(旧水田村) 庄島(旧水田村) 井田(旧水田村) 高江(旧水田村) 津島(旧水田村) 常用(旧水田村) 富重(旧水田村) 富久(旧水田村) 富安(旧水田村) 中折地(旧水田村) 中牟田(旧水田村) 長崎(旧水田村) 野町(旧水田村) 馬間田(旧水田村) 水田(旧水田村) 若菜(旧水田村) 長浜(旧岡山村) 前津(旧岡山村) 西牟田(旧西牟田町) 一条(旧下広川村) 行政区域の変遷 1889年(明治22年):町村制施行時の筑後市は、羽犬塚村、水田村、下妻村、二川村、古川村であった。 (Wikipedia:筑後市)

筑後十五城
筑後十五城(ちくごじゅうごじょう)は、戦国時代の筑後国における大友氏の幕下にあった大名分の国人である大身十五家の総称である。 筑後国には一国を統一する勢力は出現せず、近隣の大大名で筑後守護となっていた大友氏の幕下で各地域の国人領主が共存共栄的に存在していた。それらの中でも特に力を持っていた15の家を「大身十五家」あるいは「筑後十五城」と言う。 その筆頭で筑後を統括していたのが下筑後に1万2千町(後の禄高表記では約12万石)を領し、柳川城を本拠とした蒲池氏だった。『大友幕下筑後領主附』において蒲池氏本家で柳川に拠る下蒲池(1万2千町)と、分家で山下に拠る上蒲池(8千町)に分かれているのは、筑後における蒲池氏の勢力が群を抜いており、さらに強大になり、大友幕下から独立してしまう事を恐れた大友氏が、蒲池鑑久の弟の蒲池親広に別家をたてさせて大名分として取り立て、蒲池氏の勢力を分散したことによる。 (Wikipedia:筑後十五城)

筑後大堰
筑後大堰(ちくごおおぜき)は福岡県久留米市と佐賀県三養基郡みやき町に跨る、一級河川・筑後川本流の河口から23キロメートル地点に建設された堰である。 独立行政法人水資源機構(施工当時は水資源開発公団)が管理する可動堰で、筑後川の治水及び福岡県福岡地方や筑後地方、佐賀県に水を供給する利水目的を有し、筑後川水系水資源開発基本計画によって建設されているため堰ではあるが多目的ダムの扱いを受ける。福岡市の水がめの一つ。建設時にはダムと環境の問題を巡って漁業協同組合とのあつれきが激しく、現在でも有明海のノリ養殖の不漁の一因とされることがある。その一方で日本住血吸虫症の撲滅といった環境改善にも役割を果たしているとの指摘もある。 堰の沿革 1953年(昭和28年)の昭和28年西日本水害以降、経済安定本部が河川審議会に命じて策定させた『筑後川水系治水基本計画』に基づき、筑後川中下流部では大石・原鶴・千年分水路開削や築堤が行われるようになったが流下能力を更に向上させる為に洪水調節の為の治水施設が必要になった。 (Wikipedia:筑後大堰)

筑後福島駅
『矢部線』より : 筑後福島駅(ちくごふくしまえき)は、かつて福岡県八女市大字本町にあった、日本国有鉄道(国鉄)矢部線の駅(廃駅)である。 矢部線の開通と同時に開業した駅。八女市の中心市街地(旧・福島町)の南端部にあり、同市および矢部線の中心駅で高校生の乗り降りが多かった。開業時に建てられた木造駅舎が廃止まで残り、委託駅員が配置されていた。 1945年(昭和20年)12月26日 - 矢部線全線開通と同時に開業。 1985年(昭和60年)4月1日 - 矢部線全線廃止に伴い廃駅。 駅構造 2面3線があり、単式ホームと島式ホームが各1つあったが、駅舎に隣接する単式ホームのみが使用されていた。 駅周辺 八女公園(北1.0km) - 福島城跡。 岩戸山古墳(北3.0km) 現状 矢部線の他の駅の痕跡が皆無に等しい中、この駅のみは公園として整備がなされ、ホームと線路の一部ならびに踏切跡が残されている。 (Wikipedia:筑後福島駅)

筑後国
筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。 沿革 筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑前国とともに7世紀末までに成立した。 戦国時代は、筑後の守護は大友氏であり、その勢力下にあったが、実際に筑後を支配し統括したのは筑後十五城と呼ばれた大名分の国人領主たちであり、筑後南部(下筑後地域)は蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、筑後北部(上筑後地域)その他は星野氏、草野氏、問註所氏その他の大身が割拠した。 江戸時代は、筑後北部は有馬氏(摂津有馬氏)の久留米藩、筑後南部のうち柳川市やみやま市など大半は立花氏の柳河藩、大牟田市は柳河藩と親類関係にある三池藩であった。 近世以降の沿革 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り。国名のあるものは飛地領。 御原郡、生葉郡、竹野郡、山本郡、御井郡 - 久留米藩 三潴郡、上妻郡、下妻郡 - 久留米藩、柳河藩 山門郡 - 柳河藩 三池郡 - 幕府領(柳河藩預地)、柳河藩、陸奥下手渡藩 慶応4年 8月28日(1868年10月13日) - 幕府領が日田県の管轄となる。 (Wikipedia:筑後国)

筑後宇都宮氏
筑後宇都宮氏(ちくごうつのみやし)は、南北朝時代に九州の南朝方で、筑後国にいた宇都宮氏の一族。 宇都宮泰宗と貞泰 宇都宮氏第6代の宇都宮貞綱の弟の宇都宮泰宗は、元寇の時に九州に下向し、筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点にした。その子で、後醍醐天皇の命により九州をめざした南朝の懐良親王を擁護し、伊予国から豊前宇都宮氏の豊前国仲津に移った宇都宮貞泰の次男で、懐良親王の肥後国に置かれた征西府(征西軍営府)に属した宇都宮貞久が筑後国に移ったことにはじまる。 懐良親王と筑後川の戦い 宇都宮貞久、その弟の貞邦、貞久の子の懐久、その子の久憲(久則)、また懐久の弟の資綱、その子の政長などを筑後宇都宮氏という。 宇都宮貞久は、征西府の懐良親王揮下の親衛軍武将であり、弟の貞邦、嫡子の懐久は、筑後川の戦いで討ち死に。 宇都宮久憲と渡辺党蒲池氏 宇都宮懐久の子の久憲は、祖父の貞久に育てられるが、南朝が凋落し、祖父の亡き後、筑後の嵯峨源氏渡辺氏の流れを汲む渡辺党蒲池氏(前蒲池)の名跡と遺領を継ぎ蒲池久憲と名のり、宇都宮党蒲池氏(後蒲池)の祖となる。 (Wikipedia:筑後宇都宮氏)

筑後川昇開橋
筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう、Chikugo River Lift bridge)は、日本国有鉄道(国鉄)佐賀線に存在し、筑後川をまたいで福岡県大川市と佐賀県佐賀市諸富町(廃線時・佐賀郡諸富町)を結んでいた鉄道用可動式橋梁である。佐賀線の廃線後も保存され、現在は歩道橋として活用されている。旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)として重要文化財および機械遺産に指定されている。 筑後川昇開橋は、国鉄佐賀線の鉄道橋梁「筑後川橋梁(ちくごがわきょうりょう)」として建設され、1935年(昭和10年)竣工、同年5月25日に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている可動橋には旋回橋、跳開橋(跳ね橋)、昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のものである。橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。 (Wikipedia:筑後川昇開橋)

筑後軌道
筑後軌道(ちくごきどう)は、福岡県久留米市と大分県日田市を結んでいた軌道線。 久留米-日田間を鉄道で結ぶ計画は1899年(明治32年)に西洲鉄道(久留米-豆田間28哩24鎖、資本金250万円)の計画があったが不況により停滞していた。このため見切りをつけた発起人達は建設費の廉価な馬車鉄道に方針を変更した。1901年(明治34年)10月18日出願し、1902年(明治35年)5月10日に特許状が下付された。浮羽郡、三井郡の素封家たちにより会社を設立。商号は吉井馬車鉄道としたが、筑後馬車鉄道に改められ1903年(明治36年)10月吉井町 - 田主丸間が開業しその後徐々に延長し豆田まで開通したのは1916年(大正5年)のことであった。 当初は県道上に馬車軌道を敷設しただけの簡素なものだったが、後に石油発動車(焼玉エンジン動力の小型石油機関車、通称「駒吉機関車」)を使用した軽便鉄道に変わった。1911年(明治44年)の時点で同社は、この小型機関車を47両も保有するようになっており、鉄道の内燃動力化の先駆例と言えるが、わずか5 - 7馬力ほどの低出力で客車1両を牽引できるに過ぎず、騒音が激しい上に故障も多く、使いにくい車両であったという。 (Wikipedia:筑後軌道)

筑後大石駅
筑後大石駅(ちくごおおいしえき)は、福岡県うきは市浮羽町高見にある、九州旅客鉄道(JR九州)久大本線の駅。 1931年(昭和6年)7月11日 - 鉄道省(国有鉄道)の駅として開業。 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR九州に継承。同時に無人化。 2007年(平成19年)1月26日 - 旧駅舎解体。 2012年(平成24年) 7月14日 - 平成24年7月九州北部豪雨の影響で休止。 7月16日 - 筑後吉井駅 - 日田駅間にて、代行バスの運行開始。 8月25日 - 列車の運行を再開。 駅名の由来 開業当時の駅の所在地が「浮羽郡大石村」だったことによる。これに旧国名の「筑後」が付けられた。 駅構造 単式ホーム1面1線を有する地上駅。久留米方より側線が延び、その先には保線用機関車の車庫がある。1968年9月までは当駅折り返し列車も設定されていた。 駅の交換設備は1971年に用途廃止、設備そのものは翌1972年に撤去され、今でも2番ホームが草の中に残っている。 (Wikipedia:筑後大石駅)

筑後弁
日本語 > 九州方言 > 肥筑方言 > 筑後弁 筑後弁(ちくごべん、ちっごべん)は、福岡県南部で話される日本語の方言。 一般的に筑後弁という場合、福岡県筑後地方全体の方言を総称する場合(筑後方言と同義)と、筑後地方北部の久留米市や筑後市を中心とした地域で使われる方言(久留米弁)を指していう場合とがある。 ここでは後者の久留米弁について記述する。久留米弁は大牟田市で使われる大牟田弁とはイントネーションや単語などに違いがみられるが、佐賀県鳥栖市の方言とは良く似ている。 語彙 動詞 「いさる」「ゆさる」=沈殿する 「おしょれる」=折れる 「おせこせする」=あれこれやる 「おっちゃくる」=落ちる、落下する 「おらぶ」=叫ぶ、大声を出す(「そげん、おらばんよ」=そんなに、大声を出すな) 「かたる」=参加する 「がまだす」=精を出す 「がめる」=盗む 「からう」=背負う 「きびる」=結ぶ 「きる」=両替(「一万円札ば千円札にきってください」=一万円札を千円に両替してください ) 「ぐらりする」=失望する、がっかりする 「くらすっ」=殴る、叩く「誰々にくらされる」 「くる」=行く(「7時までには来るたい」は、7時までには行きます の意) 「けそけそする」=そわそわする、落ち着きが無い 「こっくらする」=叩く、殴る 「こちょぐる」=くすぐる 「じょうる」=おろす、さばく(魚、鶏など) 「すたす」「すつる」「ほったする」=捨てる 「すためる」=水を切る 「そうつく」「さるく」=うろうろ歩き回る 「たてがう」=ちょっかいを出す、からかう 「たぎらかす」=沸かす 「たまがる」=びっくりする 「なおす」=しまう 「なごなる」=横になる、寝る 「なんかかる」=寄りかかる 「ねぶる」=舐める 「ねまる」=腐る 「のうなる」=無くなる 「はらかく」=腹を立てる 「はわく」=掃く 「ぴっしゃぐる」=潰れて扁平になる 「ほうどる」=這っている (虫など) 「ほげる」=穴があく(ズボンに穴んほげた = ズボンに穴があいた) 「ぼてくりまわす」=ボコボコにする 「まりかぶる」「しかぶる」=漏らす 「まる」=用を足す 「みみる」=聞こえる (「みみらんばい」=聞こえないよ ) 「むぞがる」=かわいがる 「よめる」=嫁ぐ 形容詞 「えすか」「えずか」=こわい、恐ろしい 「おうちゃっか」=横着 「からか」=辛い、しょっぱい 「きなか」=黄色い 「こすか」=セコい、ずるい 「こちょばいか」=くすぐったい 「こまか」=小さい、背が低い 「こゆか」=濃い 「こわか」=硬い 「ざっとなか」=大変だ、骨が折れる 「しかとんなか」=くだらない 「しょんなか」=しょうがない 「しるしか」=面倒くさい 〜をしたくない(雨んふっとるけんしるしか〜) 「すいか」=すっぱい 「すかん」=嫌い 「せからしか」「しゃあしい」=邪魔くさい、めんどくさい 「ぬっか」=暖かい 「ひだるか」=ひもじい、腹が減った 「ふとか」=大きい、でかい、背が高い 「みたもんなか」=みっともない 「むぞか」=かわいそう 「よか」=良い、よろしい 副詞など 「いっちょん」=全然、まったく、一つも 「えらい」=とても、沢山 「がば」=とても、沢山 「しゃっち」=いつも、決まって、必ず 「ぞーたん」=冗談 「ぞうたんのごつ」=全くもう!とんでもない! 「ばさらか」「ばさろ」「ごうほん」=とても、沢山 「つんのうて」=連れ立って(つんのうて出かくるばい=連れ立って出かけます) 「こげん」「そげん」「あげん」「どげん」=こんな、そんな、あんな、どんな 「あて」「うち」=私:女性(「あてどん」「うちどん」=私たち) 「おどん」=私:男性(「おどんどん」=私たち) 「すったく」=手抜き 「すら」「すらごつ」「しらごつ」=嘘、虚言「〜つくな」 「でけん」=駄目 「にしゃ」=お前 「ほんなこつ」=本当のこと、本当に 「ようら」=適当( いい加減な感じ ) 名詞 「いん」=犬 「かべちょろ」=ヤモリ 「けちょくりん」=カイツブリ 「こしょう」=唐辛子 「じご」=内臓、わた。 (Wikipedia:筑後弁)

筑後小郡インターチェンジ
筑後小郡インターチェンジ(ちくごおごおりインターチェンジ)は、福岡県小郡市山隈にある大分自動車道のインターチェンジである。小郡市の大部分や、大刀洗町へ行くのに便利である。 1987年2月5日:鳥栖JCT - 朝倉IC間開通にともない供用開始。 接続する道路 直接接続 福岡県道53号久留米筑紫野線 間接接続 国道500号 料金所 ブース数:4 入口 ブース数:2 ETC専用:1 一般:1 出口 ブース数:2 ETC専用:1 一般:1 周辺 小郡市街地 城山公園 焼峠古墳 御勢大霊石神社 鳥栖市方面 筑紫野市方面 久留米市方面 九州国立博物館(県道53号・県道35号経由) 隣 大分自動車道 (9) 鳥栖JCT - 井上PA(上り線のみ) - (1) 筑後小郡IC - 大刀洗PA(下り線のみ) - (2) 甘木IC 関連項目 日本のインターチェンジ一覧 西日本高速道路 外部リンク 西日本高速道路株式会社 九州支社 小郡市。 (Wikipedia:筑後小郡インターチェンジ)

筑後信用金庫
筑後信用金庫(ちくごしんようきんこ)は、福岡県久留米市に本店を置く信用金庫。 沿革 1924年11月21日 - 産業組合法による、有限責任信用組合久留米庶民金庫を設立 1943年4月 - 市街地信用組合法に基づき、久留米信用組合に改組 1950年4月 - 中小企業等協同組合法に基づいて改組 1951年10月 - 信用金庫法に基づき、久留米信用金庫となる 1974年8月 - 八女信用金庫と合併し、「筑後信用金庫」となる 大川信用金庫との合併計画 2008年10月、大川市に本店を置く大川信用金庫(おおかわ信用金庫)と対等な立場で合併をすることで合意した。 (Wikipedia:筑後信用金庫)

筑後広域公園
筑後広域公園(ちくごこういきこうえん)は、福岡県が主体となって同県筑後市とみやま市にまたがる矢部川右岸地域に整備している公園である。筑後広域公園振興事業団が管理運営する。
筑後市大字津島とみやま市瀬高町本郷にまたがる地域の、九州旅客鉄道 JR鹿児島本線西側にあたる約21.8haが開園している。現在利用できるのは、多目的スポーツゾーンであり、残りの部分は整備中である。一部施設は有料のため公園管理事務所に予約申し込みする必要がある。
また公園中央付近には「公園の中の駅」をコンセプトに、九州新幹線船小屋駅が整備される。
休憩室(管理室)
駐車場
連絡橋(沖の端川に架橋)
多目的グラウンド(照明有り)
体育館
多目的広場
テニスコート(照明有り)
(Wikipedia:筑後広域公園)

筑後地方
筑後地方(ちくごちほう)とは、福岡県を4つに分割した地域(福岡・北九州・筑豊)のうちの一つで、福岡県の南部地域の呼称。核となる都市には久留米市・大牟田市・柳川市などがあり、そのうち久留米市が筑後地方で最大の都市である。 範囲 筑後地方の範囲は、旧筑後国の領域を指す場合(狭義)と、旧筑前国に属するものの筑後川流域である朝倉市や朝倉郡を含める場合(広義)とがある。 狭義の範囲 大牟田市 久留米市 柳川市 八女市 筑後市 大川市 小郡市 うきは市 みやま市 三井郡(大刀洗町) 三潴郡(大木町) 八女郡(広川町) 広義の範囲 上記に以下の市町村を加えた地域である。 朝倉市 朝倉郡(筑前町、東峰村) 天気予報 天気予報の一次細分区域は、上記広義の範囲による。また、二次細分区域は以下のとおり。 筑後北部:久留米市、小郡市、うきは市、朝倉市、朝倉郡、三井郡 筑後南部:大牟田市、柳川市、八女市、筑後市、大川市、みやま市、三潴郡、八女郡 地域の特徴 久留米市・柳川市・筑後市など、西鉄沿線やJR鹿児島本線沿線を中心に宅地開発が進んでいる。 (Wikipedia:筑後地方)

筑後川の戦い
筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の延文4年/正平14年8月6日(1359年8月29日)、筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。大保原の戦い、大原合戦とも。日本三大合戦の一つ。 延元元年(1336年)、後醍醐天皇は征西大将軍として九州に当時8歳の皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府とした。 足利尊氏が幕府の内訌であった観応の擾乱を治め、八幡の戦いを制し、正平9年/文和3年(1354年)に南朝の支柱であった北畠親房が没すると、南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族のみとなった。 延文4年/正平14年7月、懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田播磨守ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。 (Wikipedia:筑後川の戦い)


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